あの夜とは、アナタのどんな夜でしょうか。
ワタシの「あの夜」は突然やってきて、
どんな幸福な日々のさなかにあろうと、
熊手にひっかけるみたいに簡単に、
ワタシを宙吊りにして眠れなくしてしまうのです。
(なぜだろう、今日のワタシはひとりぼっちだ。)
この焦燥、この頼りなさ、この薄暗さ、よくわからないこのもやもや。
あの夜、とは、あの、孤独。
友達はたくさんいるし、恋人だっていないわけじゃない。
今すぐ、メールや電話をすればいい。それで終わるなら。
しかし残念ながら、突然やってきた「あの夜」には誰もかなわないのです。
なぜなら、それは、他でもない、たったひとりのワタシの夜だからです。
なにかないか?なにかないか?なにかないか?
なにかないか?なにかないか?なにかないか?
この水溜りを乾かす方法。
ずぶずぶと鉛のように重たくなっていく体をひきずって、
ずるずると泣き出しそうな気持ちをふりきって、
部屋の本棚から可能な限り刹那的な内容のものを何冊も何冊も、ベッドに積み上げてみる。
「決定版 基本のイタリアン」「ちょっと猫ぼけ」
「夜露四苦現代詩」「伊勢物語」
「へんないきもの」「またまたへんないきもの」
「目のまえのつづき」「がんばれ自炊くん!」
「賃貸宇宙 上下」「珍日本紀行 西日本編」
「間取りの手帖」「いしいしんじのごはん日記」
「ギリギリデイズ」
断片的な文字や映像を頭の中にぶちこんで、
コラージュして、頭をぐるぐる、させる。
(伊勢物語の第三十七段はひどく卑猥ですきだ。)
あれこれ読んだり眺めたりしてるうちにおなかがすいてくればしめたもの。
料理の本を眺めることにシフトして、空腹をふやす。
「おなかがすいた。おなかがすいた。」孤独は空腹には勝てない。
眠ることを許されてあっという間に夜はすぎる。
読んでも眺めても、少しも夜が過ぎていかないときだってあります。
もやもや、ざわざわ、ずきずき、いてもたってもいられないくらい、
「ひとりぼっち、ひとりぼっち、ひとりぼっち、ひとりぼっち」
耳元でささやかれてるような、そんなかんじ。
本をどさどさと床に落として、ぱたん、とベッドの上で大の字になってみます。
部屋はクリップライトのささやかな明かりで照らされています。
あたりは息をするのも気を使うくらいにひっそりしています。
壁掛け時計が低くうなる。
ジッジッジッジッジッジッ
硝子工場で煙突が鳴いてる。
ウォォーンウォォーンウォーンウォーンウォーーーーーン…
終電はもうとっくになくなっているから、電車の音は聞こえない。
すぐ近くの音と、遠くの音を、同じように聞いてる。
(ああ、とけてなくなりたい。)
自分がたったひとり、存在するのだということがときたますごく重たくなってくる。
自分を大切に、だとか自分のやりたいことをやればいいよ、とか、
自分が幸せになる方法を考えなさい、とか、かけがえのない自分、とか、
実は自分じゃない他人が都合よく幸せを描いてるにすぎない、とか
思うようにいかない、とか実は思ってることなんてない、とか。
誰といたって自分は消えない。
自分なんてなくなっちゃえばいいと思う夜がある。
自分と自分じゃない何かの境界を越えれば、
孤独なんてこの世から消えてなくなっちゃうんじゃないかと思ったりする。
だけど、やっぱりそんな日はやってこないから、「あの夜」はときどきワタシのところにやってくる。
アナタのところにはやってくるのでしょうか。
アナタはどうやってやりすごすのでしょうか。
アナタの「あの夜」は、どんな夜でしょうか。
ワタシは「あの夜」を越えて、今日も音楽を聴いています。
あの夜は、いつの夜だったのだろう。
ブリリアント・カットの黒いダイヤモンド。
閉じたまぶたの内側をスクリーンにして、巨大な工場を眺めている。工場はまるでそれ自体が生きているかのように、精密に、力強く稼動している。工場の壁面には黒いペンキで大きく「45」という数字がペイントされていた。あたりに人がいる気配はない。耳をそばだてると、かすかに汽笛のような音が聴こえた。
見上げると、空模様も工場の景色に輪をかけて怪しく寂しい冬空だった。もったりとした油絵の筆致を思わせる。重たい雲間から、うっすらと月明かりが透けて見える様は、牡蠣の殻の内側の真珠質と、身の乳白色に似ている。
眼前に広がる海は静かにさざめいて、かすかに差し込む月明かりをきらきらと反射していた。海への距離が近いわりに、いわゆる潮の匂いは不思議と感じられない。イメージに関して言えば、海は空よりも軽かった。
画面全体の天に近い方は漆黒に近づいていき、地上に近い方は暗緑色から薄いクリーム色へとグラデーションを描いていた。
暗く、ざらついた質感の風景は、得体の知れない不安感と同時に安堵感を与えてくれるものだ。いつまでもそこに隠れていたいなどと、叶うはずもないことをぼんやりと考えていた。
次の瞬間、画面が切り替わる。炎天下の観光地の風景が、見たような、見ないような山の上からの風景になり、眼下の街を見下ろしていた。草原、白い雲、粒子の粗い青い空。ジオラマのような街並み。ここは京都の街だ、と思った。
また次の瞬間には、どこまでも続くような田畑と平屋と大味な看板の風景。富士の麓の製紙工場の煙突の群れと黒い煙。書割のような飲み屋街。これは代々木だろうか。
はたまた、新幹線で見た風景。TVの旅番組で見た風景。映画館で見た風景。バス停のそばでコンクリートにたれた白いソフトクリームには、蟻がたかっている。夜の高速道路のオレンジの灯り。カード会社のネオンサイン。などなど。
ストーリー性もないので夢を見ているということにはならないのだろうが、自分の意思と関係なく、TVのチャンネルが勝手に切り替わっていくようにして、絶え間なくイメージが氾濫した。
映像だけでなく、匂いがすることもある。例えば、半ば野生化して繁茂した金木犀の香り。若い女の子達の放つ、甘ったるい香水の残り香。夕立の匂いがする地下鉄の駅構内の匂い。古着に染み付いた、見たこともないアメリカの洗剤の匂い。
体はかすかにふわふわと、小さく揺られている気がする。どこまでも続くまっすぐな線路の上を連れて行かれるようだ。これは今日の移動時間が長かったせいだろうと考えた。数時間前まで、新幹線に乗って旅をしていたのだ。
やがて暗闇の中を、レーザー光線のような幾何学模様が回転し、色鮮やかな流星群となって迫ってくる。古いサイケデリックなCG、といった風だ。
まだ目は閉じている。目を開こうにも、頭で出している信号が、体の方にうまく伝わっていないようだった。
小学生の頃か、プラネタリウムで星空と続けて上映された映画を見た。ハワイだったかイタリアだったか、どこか外国の火山の噴火を捉えたドキュメンタリー映画だった。半球形の天井に映し出されて、画面を横断するトレーラーがひしゃげて見えた。
映画はこっちに溶岩が流れ出して、石が飛んでくるんじゃないかと見えるほどの迫力だった。まぶたの映像に翻弄されながら、そんなことを思い出していた。
プラネタリウム番組は昔の方が面白かったように思うのだが、気のせいだろうか。
気がつけば、さっきから何回寝返りを打ったのか分からない。
自分の体温が移って、布団も枕も暑すぎる。
睡眠薬を飲むには時間が経ちすぎていた。今からでは効果がずれこんで、翌朝また寝すぎてしまう。
酒を飲めば、胃がむかむかするかも知れない。
そうこう考えているうちにさらに時間が経つので、結局、いくつかあったチャンスを全て棒に振ってしまった。
今日は特に疲れていたので、日付が変わる前には床についたつもりだった。
昨日だってろくに寝ていないし、日中はこれでもかというほど沢山歩いた。歩きすぎて、脚が張っているのも眠れない一因かも知れない。
そんなに歩くつもりではなかったが、何しろ知らない土地だ。勘で歩けば道にも迷う。かといって、一度通れば覚えている訳でもないのだが。
今、午前ニ時くらいだろうか。
椅子の上でとっくに充電を終えている携帯電話に手をのばした。新着メールの通知がぴかぴかと青く点滅している。最近は一時間に数本も迷惑メールが入ってくることがある。来るのは構わないが、これをいちいち消すのが面倒だ。
電話につながったコードを寝ながら外すのに手間取って、爪を傷めた。無理な体勢で肩も軽く痛めた。
枕の位置までごろりと戻った。
暗闇で見る携帯電話の光は、自動販売機のようにやたらと白く、眩しい。午前三時を過ぎていた。
明日は午前中には起きられないかもしれないが、ここまで来たら仕方がない。足をあげ、反動をつけて上体を起こした。
机の上にあるペットボトルから、水を一口飲むと、携帯電話を手にしたまま仰向けに寝転んだ。
こんな時間に相手をしてくれる物好きもいないだろうし、いたとしても、それを知る手段もない。無意味に携帯電話を何度か開いたり閉じたりした後で、また椅子の上に戻した。灯りは十五秒間点灯して、消灯した。暗闇が取り戻された後も、まぶたの内側には強烈に青白い残像が、ぽっかりと穴が空いた様に残っていた。
夕方、とある川沿いのカフェにいた。一人掛けのグレーの布張りのソファに腰掛けると、予想以上に体が沈み込んだ。
オープンカフェになっている左側のテラスを見ると、随分綺麗な、黄色がかった満月が窓の外に見えた。映画に出てくるような立派な月だった。目を凝らしてよく見ると、満月は西の空の低いところに浮かんでいて、支柱がついている。暗闇に浮かぶ街灯だった。
これまでの経験からいっても、奇跡というものは、そう簡単にはやってこない。それがどんなに小さい奇跡であっても。
アイスコーヒーのストローに唇をつけ、少しがっかりした気分で、店内の観察を続けた。テラスに面したガラスは外の方がずっと暗いために、外の景色と店内の景色をブレンドして映している。闇の中に街灯と並んで、ぼおっと青白く、向かいの中華料理店の山水画が浮かびあがっていた。
アクリルケースに山水画の印刷がしてあって、中に蛍光灯でも仕込んであるらしい。
美術館で絵を見るときは、体が絵の中に入って行ったり、出て行ったりする。よほど集中して見られるときには。
目の錯覚によって作られただまし絵に見入りながら、安っぽいアクリル仕立ての山水画の中に迷い込んでみたいなんて、そんなことを思った。桃源郷とは、案外そんなところにあるのかも知れない。きっと、なんだか俗っぽい仙人が住んでいるのだろう。
寝ても醒めても、日常の隣に幻覚があるのだなと、他人事のように思い至った。
隣の席(一番窓側の席)では、エナメルの赤い靴を履いた娘がしきりに母親に悪態をついている。娘は三十代中頃で、大きなピアスをしている。仕事はとても忙しいらしい。今たまたま気分が悪いという雰囲気でもなく、娘は日頃からの母親の一挙手一投足が気に入らない様子だ。母親は耳が悪いのか、娘の注意をほとんど気にする様子もなく、自分のしたい話を続けている。この調子では、家族という関係でなければ、とっくに絶交していてもおかしくないだろう。双方に言い分はあるのだろうが、コーヒーを飲んでリラックスしたい今の気分のBGMとしては、ちょっと相応しくない。
イヤフォンを耳に詰め込むと、耳障りな喋り声は簡単に聞こえなくなる。その日聴いたのは、ホルガー・シューカイの「Movies」だった。ノスタルジーと未来を同時に感じさせるファンキーな音楽に包まれて、世界は少しだけ能天気に見えた。
コーヒーと音楽。アルコールと音楽。楽しそうに旅行の計画を立てる女の子達。ほんの少し、疲れの色が見える女店員。足元は黒いクロックスのゴムのパンプスだ。粉砂糖をふるい、ミントの葉とホイップ・クリームが添えられたガトー・ショコラのしっとりと深い焦げ茶色は鋭角なオブジェのよう。
孤独な楽園ぐらいなら、ちょっとしたアイテムと気分の組み合わせで実現できることもある。夜は少しずつ幸せを取り戻し、自分の傍らで静かに息吹いている。
帰りの新幹線では乗り込んですぐ、気絶するように眠りに落ちていた。
ごちゃごちゃとした名古屋の街に差し掛かるところで目が醒めた。右隣の通路側の席では、眼鏡をかけた女性がイヤフォンをして、本を読んでいた。
女性は若く、明るい髪色と赤いフレームの眼鏡がアンバランスで、人が良さそうな印象だ。太ももにダメージのあるブルーのデニムのスカートをはいている。この子は連休に帰省して、母親と仲良く話したりしていたんじゃないかな、なんて想像を重ねた。疲れていたので、自分がいびきをかかなかったか心配になった。彼女が小さな耳に白いイヤフォンをしていたのは、そのせいだったかもしれない。
車内は乗客が食べ終えた、様々な弁当のにおいに満ちている。夜の新幹線は、昼間にはない活気と閉塞感があって、別の乗り物のように思えた。
外界から遮断され、煌々と蛍光灯に照らし出された車内は、雨の日の教室にも似ている。
窓際にひじをついて車窓を過ぎ行く街の灯りに目をやりながら、つい一時間ほど前に自分が立っていた、改札口の光景を思い出していた。
別れ際はいつも淋しくなってしまう。俺は始めることと終わらせることがうまくない。
では、続けることはうまいのだろうか。見送るのと、見送られるのはどちらがいいのだろう。
思えば、自分はいつも簡単な方を選んできたんじゃないのか。たとえ、無意識での仕業としても。
改札口に置いてきた、今まさに、どんどん遠ざかっていくものを思った。胸がこわれそうになって、取って返したいような気すらした。
そうして、自分の中にもまた、夕方、あのカフェでみた若い女の母親への悪態と同じように、反射的に抱く無差別な残酷さがあって、そのたびに反射的な後悔をする。そのことを知っている。
残酷さと同じ分だけ、慈愛の心と海より深い優しさがあるのだと言って、誰に信じてもらえるのだろうか。どの感情も表には微塵も出さない。黙りこくって、自分で孤独を買っているようなものだ。
一瞬、鋭く息を吸って、体がびくっとした。これは良くない兆候だ。呼吸を深くして、冷静になる努力をした。
俺には才能がない。諦める才能も、中庸という才能も、うまく生きていくための才能が何もない。心と体がばらばらに砕け散りそうだった。きょろきょろと目だけを動かして、すがるものがないか探した。まだこの現実とやっていけることを感じるために、何かほんの少しでも手がかりが必要だった。
自分の気持ちと関係なく、風景は走り続けている。つかの間の幻想から遠ざかり、永遠の日常へと近づいていく。地球が自転する遠心力に吹き飛ばされそうで、どうしようもない不安がやってきた。
車掌が名古屋からの乗客の切符を確認して廻る。
少し気持ちを落ち着かせてから、旅の荷物の中からイヤフォンを引っ張り出した。音楽でも聴けば気がまぎれるかも知れない。
孤独なシンガーソングライターの歌が好きだ。理由はわからない。
生きていると色々ありすぎて、いちいち理由を考えていては追いつかない。
プライヴェートな表現がいいんだ。きっと。本当にプライヴェートな表現を、親密に二人きりで打ち明けてくれるような音楽があれば。似たような心情の人間がどこかにいるんだとわかれば、安心する。余計なことを言わず、ただ、真実だけを歌って欲しい。
それからはもうあまり眠りたいとも思わず、暗闇を眺めていた。
俺たちは並外れた夢想家同士だ。だからうまくいく。不安なんてものは、大した障害ではないんだ。
あと二時間、暗闇と蛍光灯の織り成す縞模様を潜り抜けると、家にたどりつく。
肩に食い込む荷物の重みと、ありとあらゆるフラッシュバックに疲弊しきった、へとへとの状態で。
旅の日の夜は、大体こういうことになる。
ごちゃごちゃしてしまって、ちっとも眠れやしない。
刻まれた記憶は、まるで古い傷みたいに、もう消えることがなく体に残っている。つっぱるような違和感を覚えることもあるし、よくなじんでしまって普段は忘れているものの、ふとした拍子に傷がついた日の事をつぶさに思い出すこともある。
冒頭に書いたような、起きているのか眠っているのかわからない、朦朧とした意識の中でも、感じることが出来る。
指先に絡めた柔らかい髪の感触も、目覚まし時計が落ちてきてぶつかった痛みも、全てここに刻まれているのだから。
あの夜は、例えばそんな夜。
明け方になって、若い(といっても同年代の)女と仲睦まじく話し、並んで歩く夢を見た。現実にそういう間柄ではないが、知らない人間ではなかった。
子供の頃に住んでいた近所の商店街を歩いていた。通りを行く人は誰もいなかった。実際、今はさびれてシャッターが降りている店も多い。
夕焼け色に包まれて、なんとなく甘酸っぱく、いい雰囲気になったところで、窓から飛び込む外壁工事の猛烈な騒音に、目が醒めた。家が壊れるのではないかと思った。
夢の続きを見るには、今度ははっきりと目を醒ましすぎていた。